赴くままに読書通信

読んだ本を自分なりにまとめるブログ

『お金の流れでわかる世界の歴史』大村大次郎②

第2章 ユダヤと中国―太古から“金融”に強い人々

ユダヤ人が世界経済・文化の中心にいた理由

「世界史とお金」を語るとき、欠かすことが出来ないのがユダヤ人の存在

=彼らは、長い間国家を持たない放浪の民だった

*世界史に登場してくるあらゆる経済大国の陰には必ずユダヤ人がいる

 

なぜユダヤ人は、これほど長い間世界経済・文化の中心に居続けたのか?

→その謎を解くカギは、彼らの歴史の中にある

 ※『旧約聖書』ではユダヤ人は4000年の歴史があるということになっている(ユダヤ人は人類の祖であるアダムとイブの子孫だとされている)

 

●ユダヤ人の始まりと古代イスラエル王国

①紀元前2000年頃、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)にいた人々がアブラハムに率いられて、カナンの地(現在のパレスチナ)に移住した

→これがユダヤ民族の始まりだとされている

②紀元前17世紀頃、エジプトに移住したが奴隷にされる

③紀元前1260年頃、預言者モーセに導かれてエジプトを脱出し古代イスラエル王国パレスチナに建設した

 ※このイスラエル王国は、3代目の王、ソロモンの時代に栄華を極め、紅海貿易などで、世界中の富が集まったと言われる

 

古代イスラエル王国の分裂・滅亡

④ソロモンの死後、イスラエル王国はイスラエル王国ユダ王国分裂し、弱体化

⑤紀元前721年、北イスラエル王国はメソポタミアアッシリア帝国に滅ぼされる

⑥紀元前586年、ユダ王国もバビロニア王国に滅ぼされた

 ※ユダ王国のユダヤ民族は奴隷としてバビロニア王国に連れ去られることで、かろうじて滅亡を免れ(=バビロン捕囚)、この時期からユダヤ人は「放浪の民」となっていく

 

ユダヤ教の成立と「放浪の民」への道のり

⑦ユダヤ人たちはこの頃から金貸し業を営んでいた

⑧紀元前538年、ペルシャ帝国がオリエント世界の覇権を握った時、ユダヤ人はパレスチナへの帰還が許される

⑨帰還したユダヤ人たちはエルサレム神殿を再建し、ユダヤ教の律法を整えた

*現在のユダヤ教の基本となる部分はこのときにつくられたもの

⑩紀元前後にはローマ帝国の後ろ盾を経たヘロデ大王により、イスラエルヘロデ王がつくられる(ヘロデ王はユダヤ人だが、ユダヤ民族の支持を得て王となったわけではなかった)

 ※この時期にイエス・キリストがユダヤ人の中から新しい思想を唱え始める

ヘロデ王の死後、ローマ帝国とユダヤ民族との関係は悪化、紀元66年、ユダヤ戦争が起こる

⑫紀元70年、エルサレムが陥落してユダヤ人は再び国を持たない民族となり、以来1947年のイスラエル建国まで、国家を持たない「放浪の民」となった

 

f:id:yuna84Galaxy:20160816175447p:plain

古代ユダヤ人

 

現代の世界金融システムはこのとき生まれた!

ユダヤ人特有の金儲けのうまさ、ユダヤ商法は、「放浪の民」というユダヤ人の特質と大きく関係している

*放浪するということは、各地域の情報をたくさん持っているということ

=「一国に定住しない」「母国が無い」ことによって、あらゆる国を客観的に眺められ、様々な地域の文化や物をほかの地域に移すという役割を果たしてきた

 

●ユダヤ人が果たした世界の金融取引のシステム開発

金融業、金貸し業

→紀元前6世紀バビロニアの世界最古の貸金会社「ムラシュ商会」はユダヤ人70人が出資者として名を連ねる

→紀元前5世紀のエジプトパピルス古文書にユダヤ人が金貸しを行っていた記述がある

両替、為替

→①古代のユダヤ人は律法によって1年に半シクル(おおよそ年収の一割程度)をパレスチナの教会に収めなければならなかった

 ②ユダヤ人の多くは古代から既に離散していたため各地の多種多様な貨幣が持ち込まれることに

 ③多様な貨幣を機能させるには両替が必要=両替商が発達

 ※当時のユダヤ教では国内で利子をつけてお金を貸すことは禁止されていたが、諸外国の人々に対してお金を貸すことは黙認されており、両替商にとって金貸しはうってつけの副業だった

 

●「お金は処世のための、合理的な道具である」

ユダヤ教は他の宗教に比べお金に関して柔軟な姿勢を示している(ラビ=指導者自身が事業家であることも多い)

 ユダヤ教の経典『旧約聖書』自体はキリスト教イスラム教も経典の一つとしており、金儲けを推奨するような文言は殆ど出てこない

ユダヤ人が国を失い放浪の民となってからのラビたちの指導文言に『タルムード』があり、これは『旧約聖書』以降のユダヤ教ラビたちが発言してきたことを編纂したものがある

→当時のユダヤ人の状況を反映し、非常に合理的な処世術が唱えられた

*土地を持たないユダヤ人にとってお金こそが命を繋ぐ道具であり、他の民族に比べてお金に対する執着が強くなったともいえる

 ※ユダヤ人で共産主義の祖でもあるカール・マルクスは、ユダヤ人の性向を嫌い「ユダヤ人の思考を具現化したのが資本主義」だと語っている

 

f:id:yuna84Galaxy:20160817011427p:plain

Electronic Journal: イルミナティ=フリーメーソンではない(EJ1836号)

 

始皇帝は「貨幣統一」して「中国全土を統一」した

中国を最初に統一したことで知られる秦の始皇帝

→秦の勝利に対して非常に大きな経済的要因を与えたのが「通貨の統一」

 

●通貨の統一による国土統一への歩み

①紀元前336年、秦は政府による「半両銭」の鋳造を始めた

 ※当時の中国では様々な貨幣が形状・価値がバラバラに存在しており非常に扱いづらかったが、秦の政府はそれらが統一された「半両銭」を鋳造し領民に使用を強制した

*「公定貨幣」を製造していたのは当時戦国中国7か国のなかでは秦のみだった

②貨幣が統一されると流通が促進し、都市が発展(政府にとっても徴税や軍備が格段にやりやすくなり、増収になった)

 ※半両銭は円形のコインで真ん中に四角い穴が開いており、穴に紐を通して持ち運びができるようにするための工夫が施された(アジア圏の国々は中国の銭を真似て穴あき貨幣を創った)

③紀元前118年、「半両銭」に倣い前漢武帝によって「五銖銭」がつくられる

→五銖銭は半両銭の携帯をほぼそのまま受け継ぎ、700年に渡って使用され、中国で最も息の長い貨幣となった

f:id:yuna84Galaxy:20160817013042p:plain

半両銭とは【はんりょうせん】2010年05月11日 更新 - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words

 

中国は東アジアの“中央銀行”だった!?

中国はその後も貨幣鋳造において世界の先端を走る

→紀元前2世紀~紀元前1世紀にかけて前漢武帝によってつくられた五銖銭は平帝までの約120年の間に280億枚つくられたとされている

*古代中国でこのように大量の貨幣鋳造が出来たのは、金属の加工技術が優れていたため

 ※古代中国ではすでに鉄鉱石を溶かして鋳型に流し込んで鉄製品を作る「鋳造」が行われていたが、中国以外の古代世界では鉄に関しては鉄鉱石を半溶状にし、ハンマーでたたいて鉄製品を作る「鍛造」という方法しか開発されていなかった

 

●中国、日本、ベトナム、朝鮮の中央銀行となった「北宋

北宋の鋳銭所は銅銭37カ所、鉄銭44カ所があり、150年間で銅銭、鉄銭を合わせて2000億枚~3000億枚が作られた

→1073年王安石が宰相だった頃は銅銭の鋳造所を増設し、翌年宋銭の国外持ち出しを許可している(宋銭を外国との貿易に使おうという意図があった?)

 ※当時北宋国内では銅がだぶついており銅の輸出を開始していたが、そのまま輸出するよりも宋銭として輸出した方が価値が上がるという狙いがあった可能性が高い

北宋の銅銭、鉄銭は日本・ベトナム・朝鮮に大量に輸出され、貿易に使われる「国際通貨」のみならず周辺国家の「日常通貨」にもなった

 

世界最初の“為替銀行”をつくっていた唐

古代の中国では既に為替手形が使用されていた(=唐の時代に登場した「飛銭」と呼ばれるもの)

→当時は銅銭が主要な通貨だったが、商品の代金を銅銭で支払うとなるとその運搬が大変になり、為替業を行う民間業者が出てきた

 

●唐時代の民間業者による為替の仕組み

長安、洛陽など大都市の商人が地方から商品を買いつける場合

(1)為替業者のところへ行き銅銭を預けて預かり証を発行

(2)預かり証を地方から送られてきた商品の代金として地方の商人に送る

(3)地方の商人は自分の街で、為替業者のところに預かり証を持っていけば銅銭を払ってもらえる(為替業者同士は提携関係にある)

→現在の為替銀行の仕組みとほぼ同様

*「飛銭」というシステムは、はじめは民間業者が行っていたがやがて官営となり、国営の為替銀行とも言えるようになる

 

中国を“金融先進国”にした世界初の紙幣

北宋の時代の1023年、中国は世界で初めての紙幣をつくった(=「交子」と呼ばれる)

 

●「交子」がつくられた経緯

北宋の時代、中国の四川地域では商業が発展していたが通貨は「鉄銭」を使用していた(重い鉄銭は持ち歩くのが大変であり、高額取引には不便でもあった)

②鉄銭を預かる「交子舗」という金融業者が現れる

 ※交子舗=鉄銭を客から預かり、預かり証を発行。客は預かり証を交子舗に持っていけばいつでも鉄銭を受け取ることができた

③預かり証は鉄銭と同じ価値を持つため通貨の代わりとして用いられるようになった(この預かり証のことを「交子」と呼んだ)

 ※当時の四川地域では印刷技術が発達していたためこのようなことが可能だった

④「交子」は四川地方を中心に広く普及するが、やがて預かった鉄銭の何倍もの「交子」を無茶に発行する悪質な業者が現れ問題が多発した

北宋政府はこの問題を受けて公的な「交子」を発行(「官交子」と呼ばれる)

→この「官交子」こそが世界で最初の政府による紙幣の発行となる

⑥「官交子」は一界(3年)の発行額を125万貫とし、兌換準備の鉄銭は36万貫とした

 ※36万貫の鉄銭を準備することによって89万貫を上乗せして紙幣を発行し、北宋政府の収入とした

*「交子」という「鉄銭本位制」による通貨発行の仕組みは、世界の中でも近代金融システムを先取りしていた

 

『お金の流れでわかる世界の歴史』第2章 おわり