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赴くままに読書通信

読んだ本を自分なりにまとめるブログ

『お金の流れでわかる世界の歴史』大村大次郎③

第3章 モンゴルとイスラムが「お金の流れ」を変えた!

マホメットの“減税政策”のすごい効果

ローマ帝国が滅んだ後、世界経済はイスラム世界の強い影響下にあった

→当時のイスラム世界は非常に合理的・先進的な社会をつくっていた

 

西暦610年頃に誕生したイスラム教は急激に勢力を広げる

→メッカの商人マホメットイスラム教を開宗し、瞬く間に中東、北アフリカ、スペインに信仰者を拡大

イスラム教は誕生時から宗教であると共に国家でもあり、イスラム国家としての勢力圏も急拡大した

 

イスラム教が勢力を拡大した要因の「減税政策」

①当時旧ローマ帝国の領民たちは重税に苦しんでいた

 人頭税(人ひとりあたりに課す税)+土地税(土地の生産力を示す単位によって課す税)が課せられていた

ローマ帝国キリスト教を国教としており住民の多くはキリスト教徒だったため、過酷な税の徴収からは逃れられないようなシステムになっていた

マホメットが「イスラム教に改宗すれば人頭税を免除する」と呼びかけ、人々はこぞってイスラム教に改宗

 イスラム帝国は改宗しない者にも決して手荒なことはせず、キリスト教徒、ユダヤ教徒は「啓典の民」として改宗の強制はされなかった

イスラム帝国が厳しく改宗を迫ったのは啓典の民」以外の「多神教」の者達だった

④636年、イスラム帝国パレスチナをほぼ占領し、ユダヤ教徒キリスト教徒から人頭税を徴収していたがローマ帝国に土地を奪還され、撤退を余儀なくされる

イスラム帝国軍はパレスチナの領民に対し「安全に責任を持てなくなったので保護の大小である人頭税を還付する」として納められた人頭税の全額を還付した

⑤この地のユダヤ教徒キリスト教徒は感激し、攻め込んでくる旧主君のローマ軍に敵意を抱く

 

イスラム帝国の分裂と税金の関係

イスラム帝国マホメットの死後急速に衰え、分裂する

マホメット以降の指導者たちは税や財政に詳しくなかったため税の徴収を地方の軍人役人に下請けさせてしまう

⑦地方の有力者が私腹を肥やし、中央政府にはお金が入って来なくなる

中央政府の力は衰え、イスラム帝国の求心力が下がり、地方の有力者たちがそれぞれの地域で割拠することになる

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イスラム都市 イスラム帝国 バクダッド コルドバ

 

チンギス・ハーンによる「柔らかい政治・経済政策」

中世の世界経済にはイスラム世界のほかにもう一つ強力な非西欧圏の勢力が現れる

=13世紀初頭にモンゴル高原に突如として出現したモンゴル帝国

*圧倒的に強力な騎馬軍団を駆使し、瞬く間にユーラシア大陸を席捲し、中国・中央アジア・中東・東ヨーロッパにまたがる大帝国を築く

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日本に3度目のモンゴル侵略(元寇)がなかったのはベトナムのおかげ? – 長崎県立大村高校卒業生同窓会

 

モンゴル帝国を急拡大させた「戦闘能力」

モンゴル地方の遊牧民はもともと戦闘能力が高く、巧みに馬を乗りこなし集団で急襲した

→分散していた部族を統一し、一つの国家としたのがチンギス・ハーン

たちまち周辺の国々を蹴散らし、アジアのみならずヨーロッパの一部をも手中に収めてしまった

 

モンゴル帝国の政治経済の特徴「柔軟性」

・行政機関、文化などの面で他の国々に後れを取っていたことを承知していた

→自分たちの文化を占領地に押し付けず、占領地の文化を容認し積極的に取り入れる政策を採った

・「土地」に対する執着が殆どなかった

→モンゴル民族は農耕をあまり行わないため、朝貢的な税さえ払っていれば占領地の人々は以前と同じ生活をすることが出来た

 

その一方で、

・「抵抗するとどんな目に遭うか」を敵に知らしめた

→適地を攻略する際、激しく抵抗する都市に対しては徹底的に破壊と虐殺を行った

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モンゴル帝国の系図と4ハン国

 

モンゴル帝国が世界に“流通革命”を起こした!

 モンゴル帝国は宗教面での関心が殆どなく、特定の宗教を弾圧することも殆どなかった

モンゴル帝国の占領地の人々は比較的、安心してモンゴル帝国の支配を受け入れることが出来た

 

モンゴル帝国による世界交易の発展

中央アジアからイラン高原にまたがるイラン王朝ホラズム・シャー朝に侵攻し、131年に滅ぼす

→このときからイスラム系の官僚を大量に登用し、イスラム文化の吸収に努めた

②当時、中近東のイスラム商人たちは「オルトク」と呼ばれる商人集団をつくり大規模な交易活動を行っていた

モンゴル帝国「オルトク」を承認し、庇護する

 ※モンゴルの王族たちは保有している銀を「オルトク」に貸し与え投資をした

*「オルトク」はモンゴル帝国が建設した陸路、海路の施設を優先して使用できたので、交易で得た利益をモンゴルの王族たちに還元した

第5代皇帝フビライ・ハーンの時代に帝国内での関税を一元化する

 ※それまでは貿易品が各都市の港、関門などを通るごとに関税が課されていたが、売却地で一回だけ払えばよいことにした(税率3.3%と決して高くなかった)

モンゴル帝国は、広大な地域で治安を維持し、商人が自由に行き来できる状況があった

*先進的な経済政策を探り、世界公益の発展をもたらしたものの、国家運営の経験が浅かったためかその繁栄は100年しか持たなかった

 

オスマン・トルコという経済大国

モンゴル帝国が衰退した後、世界経済で強い影響力を持つようになったのはまたもやイスラム世界

マホメットの死後、600年を経て初期イスラム帝国の性質を色濃く受け継いだ大帝国オスマン・トルコが誕生

 オスマン・トルコ=1299年トルコ付近のオスマンという小さな豪族から発展してできた国家

*14世紀~15世紀前半に領土を大幅に拡大、1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルも攻略しローマ帝国の末裔を根絶やしたことでキリスト教世界に大きな衝撃を与えた

 

●世界経済の中心的存在となったオスマン・トルコ

全盛期には、現在のウクライナなど東ヨーロッパからアラブ全体、西アジア、西アフリカにまで及ぶ大帝国となっていた

→中世を生き延び、20世紀まで600年以上も続きイスラム教の繁栄を象徴する国となった

*西洋諸国が危険を顧みず大航海に乗り出したのは、地中海をオスマン・トルコに支配されているため、オスマン・トルコを避けてアジアと交易できるルートを開拓しようとしたのがそもそものはじまり

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世界の戦争・歴史ブログ オスマン帝国の興亡

 

国中から「スムーズに税を集める」優れたシステム

オスマン・トルコでは不完全ながら「中央集権制度」が整えられていた

 ※中世の西欧諸国は殆どが「封建制度」であり、封建制度は「国王などが当時しているものの、国の大半は貴族豪族などが支配し、国王はその束ね役に過ぎない」という支配体系のこと

→原則として国の全ての地域に中央政府が徴税権を持っていた

 

●中央集権制度が進んでいた故の強大な軍事力

オスマン・トルコには約30の州があり、2種類に分かれていた

(1)ティマール型(23/32州)

派遣した官僚たちによって町営、行政が行われていた

(2)サルヤーネ型(9/32洲)

「自治州」に相当し、総督を派遣し軍も駐屯させていたが、行政などは現地の制度によって行われていた。一定の金額を税として中央政府に送ることになっていた

→国中から税金を集め、その潤沢な資金で武器を整え、常備軍を養った

 ※総勢6万6200人に及ぶ常備軍は常日頃から戦争の訓練を行っている「職業兵士」であり、当時の西欧諸国の兵士は戦争になってかき集められるものだったのでその優劣は火を見るより明らかだった

*この先進的な制度により、オスマン・トルコ帝国は1453年~第1次世界大戦で敗北するまでの450年もの間、地中海、中近東の大領域を支配した

 

安全で採算の取れる交易ルートを押さえる!

当時の東西貿易は中国、中央アジアを経てヨーロッパに至る陸路(シルクロード)と、東南アジアからマラッカ海峡を経てペルシャ湾に上陸する海上ルートで行われていた

→二つのルートの中央ターミナルともいえる都市がオスマン・トルコの首都コンスタンチノープルだった

*当時の交通技術ではヨーロッパ諸国がオスマン・トルコを経ずしてアジアト交易をするのはほぼ不可能であり、オスマン・トルコはヨーロッパ・アジア間の交易を司っていた

 

●当時のイスラム商人が世界経済に与えた影響

・アラビア数字

イスラム商人から伝わったアラビア数字を中世イタリアの商人たちが金銭や取引の記録に用いるようになると、瞬く間にヨーロッパ中に普及した

複式簿記

イスラム商人が基本的なものを編み出し、それを北イタリアの商人がヨーロッパに普及させたというのが一般的な見方

 複式簿記=売上や経費などを記録する「損益計算書」と資産や負債などを記録する「貸借対照表」の二つの記録からなる記帳法のこと

 

『お金の流れでわかる世界の歴史』第3章 おわり