赴くまま通信簿

大切に残しておきたいものを記録します。

自己責任の格好良さとしての魅力

私は正しい意味で自己責任という意味と使い道を理解できていない。

 

責任という響きは人によって意味が違う。私は好ましく感じる時とそうでない時がある。

 

好ましいときは、責任が発生する事柄に対して自尊心や自信が確固たるものである時。

 

そうでないときは、その逆。

 

事後報告になるのか。

準備万端で、全て整っていると確信した時ようやく「責任」の所在を口にする。

 

責任を放棄する人にも、責任を持ちたがらない人にもなりたくないけれど、責任を持っているかのように見せてそこから姿を眩ませるような人が最も自分を奢っているし、私自身がそうだと思う。

 

ふとはじめた吐露から気づいたことは、私の中に「正しい意味で責任を持てる人間が人として立派であり、正しい」という思い込みを持っていること。

 

そして、「責任を持てる人間が正しい」という観念を過去のどこかで学習したということ。

 

仮に世間の人に“責任を持つ人間と持たない人間、「正しいのはどちらか」”と尋ねた時、票が集まるのは前者だろう。

 

しかし、正しいか否かという軸で考えるとそうなるだろうというだけで、おそらくこの世論に意味はない。

 

前者が選ばれる理由の多くが、コミュニケーションにおいて「信頼」が大切であることを知っているからではないか。

 

ただし、想像上の産物に過ぎないが、仮に人々の意見がそのような結果になったとして、それはあくまでアンケートに回答しているだけであって、自分ごとでは考えていないだろう。

 

無責任であることの方が賢い生き方だという持論を持つ人だっているだろう。

 

「自分の上司が責任を持てる人間、もしくは持たない人間ならどちらが良いか」

 

人としての正しさと、自分の上司では天秤に乗せるものとして相応しくないが、このような問いかけをすれば人は自分ごとで考えるだろうか。

 

 

自己責任を唱える人間が必ずしも素晴らしいかというとそうではない。

けれど、「私が責任を持ちます」と啖呵を切る人はなんだか格好いい。

 

そうか。私は周囲から格好いい人と思われたいらしい。

 

この独白に答えが出た。これで終わっても良さそうだ。